放してあげられる愛情、泳がしておいてくれる愛情


 

身内や、関わりが深い関係の仲では、きっと “束縛” って切っても切り離せないもので、人と付き合っていくには “束縛” とうまく付き合ってかなければならないのかもしれない

そんな中で、徹底的に縛ろうとする人は多いのかもしれない

でも、やはり “離してくれる人” も結構存在する…..

解放

 

感じるのは、

自分も “放してあげられる人” になりたいねぃ ということ

 

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放す、離す、というのは、一見関心はなく、その人を無視しているようにも感じるかもしれない

そして、あれこれ束縛するのは、“心配という愛情からくるもの” なのかもしれない

 

そしてそれは、受け手、与えた側によって感じ方や真意は逆転するものかもしれない

 

 

でも、関係、関わりが深い仲だと、相手の不備によってこっちまで大変なことになって共倒れになってしまう場合も普通にある

 

夫婦、親子、兄弟、友人、恋人、同居人、同僚、などなどの繋がりの仲で、好き勝手やって何かやらかしてしまったら、その関わる人に一切迷惑をかけないでも生きていける人は少ないと思う

だからそういった関わりの中では、なるべく迷惑を大きくしないように自分を管理すること自体が繋がりの中で最低限の思いやりであったり、責任であったりもすると思う

 

逆に言うと、その関わりの中で、“こっちにとばっちりが来ないようにしたい” から、それが心配だから監視する、縛る、言うことをきかせる、自由にさせない、という、自分のことしか考えてないところからくる、自分のことが心配だから相手を心配しているような言葉が出る “束縛” な場合もある笑

それはその本人もその真意に気づいてないことの方が多い気がする

 

家族や社員、集団の中で、誰かに対して、『病院に行け』 というのは

“倒れられたら大変だ” からも大きいのでしょう

 

『身体中が痛い』 とある人が言った

関わりのある人間は病院へ行けという

ま、当然ですよ

 

で、原因不明であって、どこも悪いとこは見つからなかったとする

そうすると周りは、あぁ、良かった。大丈夫なら良かったと言うでしょう

大丈夫で良かったと……………………………………

 

でも

本人の痛みは何一つ解決してない

 

原因不明ってことは治る萌のない未知のものが付きまとってるということです

痛みがつきまとうってことです

 

大病で助からない病気でなかったことがわかったと言う意味では、通常の感覚だと確かに良かったのかもしれない

 

でも、本当にその人の気持ちになって想像すると、未知の痛みが永遠続いてもう楽になりたいと思ってるほど辛いのかもしれないのです

 

でも、どこも何でもないと診断されたことによって、周りは容赦なく

普通の生活の義務を押し付けてくるのかもしれない

 

そして、『痛い、疲れた』など発すると即座にまた『病院へ行け』と言われる、または、『どこも悪くないんでしょう?何でもないんでしょうう?』って

だから、『はぁ、痛い』ともこぼせないでいるのかもしれないのです

 

その、痛みをこぼせないでいる人は、私の身近にもいます

そして、その相手の内部事情を無視して束縛して自分の快適さだけを押し付ける人も身近にいます笑

 

でも、それは完全に平行線です

後者の人とは会話になりません笑

自分が全てで自分が誰よりも正しく、世の中を白と黒、善と悪、主と従、自分とその他にしか捉えられないでいる人なので、

誰ともまともな会話が成立しません笑

 

なので私は前者をサポートし、後者とはなるべく関わらないように心がけている笑

 

私は前者の方から、

放してあげられる愛情心配でも自由にさせておいてあげられる愛情

を学んだように思う

なんだかなぁ、大丈夫かなぁ?、無謀なんじゃないかなぁ?、と思ったとしても、完全に危険なことは別だが、そのスレスレのラインでとりあえずやらせてあげる

 

そして、何事もないように心の中で応援し、心でサポートする

単なる放置プレーではなく、S.O.Sは見逃さない

って懐の深さ、愛情とか思いやりとかってこういったものなのかな、ってことを行動で教えて貰った

 

それは、相手が大人で、ある程度相手を信じていれば出来ることなのかもしれないけれど、

例えば、子供に対して、それができるのかと言うと、かなり難しいことかもしれないとも思う

 

子供は判断を致命的なくらい間違う場合が多々だし、自分で自分の責任なんて負えないし、大きな危険が伴う可能性もあるから………

だから全て親にかかってくる

だから親は縛って拘束してつないでおきたくなる

 

それは当然のことで間違ってるとも思わない

もしかしたら子を守るために首輪をしてぶん殴ってでも連れて帰らなければならないこともあるでしょう

 

そんな中でもその節々に

放してあげられる愛情心配でも相手の意思を尊重しようとする愛情を持って

しかも単なる放置プレーではなく、ちゃんと見ている

 

ってものが根底にある教育なのかどうかは重要に想う

その先の信頼関係を大きく左右する別れ道のように思う

 

教育だけに限らず、他者との関わりの中でも、

同じようなことが言える

 

本当に関わりのない他人であれば放すことは簡単でしょう,,

でも、

関わりのある仲で、結末の責任も受け入れようとできる心の解放は

信じてるならできるというような浅い確信的ものではなく

その人のことを想い、その先を受け入れられる観念に近い心情、愛情なんだと想う

 

そんなに深い関係でない関わり対しても全てにこの心情ではまぁ、もたない笑

関わりのない人の内部事情を受け止めることなんてできないし、責任なんてもちろん取れない

でも、

やめなさい、こうしなさい、それはダメだ、早く帰ってきなさい

夜遊びはやめなさい、何してんのかな?、そうしないでほしい、こうしてほしい

大丈夫かな?大変なことにならなきゃいいなとかそういった自分以外の人に感じる不安や心配が湧きあがった場合、

 

どう放すことがお互いのためになるか

を一瞬でも考えられると変わってくるのかな と

ふと感じる

 

まあ、かなりの理想論ではあるけれど

 

だからせめて、痛いとか、グチをこぼされたとしても黙って聴いて本人がどうしたいのかを尊重したいのかもしれない

薬漬け、病院漬けにして長生きさせることだけが必ずしも幸せではないのはもう誰もがわかっているはずのことだし…………….

 

どちらにしても

放す愛情には 別れがつきものだったりもする

 

最終的にそれを覚悟した上で放してあげられること、泳がしておいてくれること、自由にしておいてくれることは、

依存しない自立した深い愛情なのかもしれないと想う

 

そして逆に、イヤです 一緒にいたいですとしがみつき、それをはっきり口走ることができる人もまた人間らしく、ステキだなとも感じる 

二度と会えない本当のお別れはやっぱりイヤですもん

 

まだいなくならないでくださいという感情

もう楽にさせてあげたいという感情

 

その狭間で結局、笑えるほど無力なことを自覚したりもする………..

でも

どちらにしても解放することは心を楽にする

まったく、マハリクマハリタやっこらヤンヤンヤンだ

 

ということで

今日も しゃらんるああぁあ❤︎

 

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